武田氏は著書の中で、若松英輔氏のことば「『分からない』という経験が、『分かり始める』という現象の始まりであることを、若い人たちに伝えたいのだが、なかなかうまく行かない。」(※1・286ページ)を引用している。また、別の箇所で、「「分からない」が「分かり始める」の入り口である可能性に気づかずに」、「正解を欲する。正解を共有できなければ怖くなる。」(※1・288ページ参考)と書いています。

「分からない」ことはいけないこと、「正解を知らない」ことはいけないこと、と言う風潮があるのでしょうか。「正解を知らない」ときに、正解を人から教えてもらうのではだめで、自分で見つけることが「自己責任」なのだ、ということもあるのでしょうか。見つけようとしても「正解が見つからない」と焦るでしょうし、不安にもなるでしょう。そうなると、「正解を見つけよう」、「分かるようになろう」という余裕は生まれないかもしれません。いわんや、「分からない」ことは「分かり始め」ということにも気づけないでしょう。(2024.12.3.)

(参考・引用図書※1:『わかりやすさの罪』武田砂鉄 朝日文庫 2024年)