母体保護法

1996年に旧優生保護法は、母体保護法へと改正され、優生学的思想により規定されていた条文は削除されました。この法律の第1条には、「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定める」ことにより「母性の生命健康を保護することを目的とする」としています。

不妊手術と人工妊娠中絶

母体保護法では、不妊手術は「母体の生命に危険を及ぼすおそれのあるもの」や「母体の健康度を著しく低下するおそれのあるもの」に対してできるとしている。

人工妊娠中絶は、「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れのあるもの」や暴行・脅迫によって抵抗・拒絶ができない間に姦淫されて妊娠した場合に、指定医師によりできるとされています。

障害を理由とした中絶は無くなった?~出生前診断は何のために?~

この母体保護法への改正により、「障害があること(あるいは障害のある可能性があること)」を理由として、不妊手術・人工妊娠中絶はできないことになっています。しかしながら、母体保護法では、「経済的理由」や「母体の健康を害するおそれ」が理由であれば、人工妊娠中絶ができるとされています。

また、最近は、血液検査による新型出生前診断ができるようになりました。そして、検査結果が陽性となったとき、上記の理由を用いて、8割近くの人が人工妊娠中絶を選んだという現実があるようです。法的には認められていないので、中絶を断る医療機関もあるようですが、そうなったときは、手術を受けることができるまで医療機関を変えているようです。

法的には、障害を理由とした中絶手術は認められていませんが、現実には存在しているということになります。

新型出生前診断、国が実態調査へ

数日前の朝日デジタルで小見出しにあるニュースを見つけました(この項も、朝日デジタルの記事によるところが多いです)。日本産婦人科学会が、新型出生前診断ができる認定施設の要件緩和を公表したところ、日本小児科学会などが反発したため、厚生労働省が検討の機会を持つことにしたようで、そのための資料となるようです。

十分な遺伝カウンセリングや検査後も適切な診療をうけることができる機関が認定されているようですが、実際には認定を受けていない施設で実施されていることが増えているようです。そのために、今回の実態調査では、認定外の施設も対象になっているようです。

その理由として、血液の分析は検査機関が行うため検査費用を抑えることができて、自費診療のため価格も自由に決めることができ、カウンセリングに手を抜けば利益率が上がり、なおかつ認定外の施設が実施しても罰則がないということもあり、一部民間クリニックが参入してきているようです。

「命はお金に代えることはできない」はず

法的には、障害を理由とした中絶手術は認められていませんが、現実には存在しているということ。その判断として、新型出生前診断が用いられていること。その新型出生前診断に「利益率が高いから」という理由で参入している=ビジネスとして成り立つという読みをしているところが増えているという状況があります。

つまり、「産む」・「産まない」という難しい判断にも関わらず、「命はお金に代えることができない」と言われているにも関わらず、価格競争の渦に巻き込まれる芽があるようです。

それでも、中絶を選んでしまうのは?

出生前診断の結果が陽性になった結果、約8割の人が中絶を選んでしまう。なぜなのでしょう?理由はたくさんあるでしょう。

「障害のある子どもを私(たち)が育てるなんて…たいへんそうで無理」、「障害のある子どもを育てるには、お金がかかりそう」、「実の親や義理の親から、いろいろと言われそう」、「子どもに抱いていた夢が…実現できない」、「なぜ、よりによってわたし(たち)の子どもが…」、まだまだあるでしょう。理由は一つではないかもしれませんし、「何が何だか、分からない……」とはっきりしないこともあるでしょう。

障害のある人と出会ったことがあっても、話したことはない

いずれにしても、「障害のある子どもを育てるのは、たいへんなこと」と思わせてしまうのでしょう。障害のある人は日本の人口の1割に満たないものです。「10人に一人」と言われたときに、「そんなに多いの」と思う人もいれば「そんなに少ないの」と思う人もいるでしょう。「障害のある人を見たことはある」という人は少なくないでしょうが、「障害のある人と話をしたことがある」、「何か一緒にしたことがある」という人は多くはないでしょう。

障害のある人との出会いはテレビだけ…そこに生まれる「特別視」

障害のある人との出会いは、テレビの中だけという人も多いかもしれません。ドラマや映画、ドキュメンタリーなど、いろいろなジャンルで放送されますが、その多くは日常を描いたというよりも、「障害があっても頑張っている」とか、「障害があっても周りの人たちの理解があってこのように変わってきた」というような「美化」したものが多いように思われます。そのような傾向にあるとすれば、その根底には、障害のある人に対する、ある種の「特別視」があるかもしれません。それは障害のある人を理解しているようですが、一方で「他の人とは違う」、「わたし(障害のない人)とは違う」という姿も映し出しています。そこに、価値判断がゆがんだ形で入ってしまうと、「優生思想」につながっていく可能性があります。

逆に、「優生思想」があるから、テレビや映画で取り上げられる形が「美化」に見えるようなテーマになっているのかもしれません。「できないと思っていた(という偏見)が、できるようになっている(という驚き)」ということです。

蛇足ですが、パラリンピックが商業主義にのらないことを祈るばかりです。

「優生思想」があると(感じると)、障害のある子を産むことの抵抗になりうる

そこで求められている「がんばり」は、変化が見て分かるがんばりです。どれだけ「がんばって」いても、成果が出なければ、「やっぱり障害のある人は…」となるでしょう。「がんばり」に対する評価が、成果によって評価されるとそれはプレッシャーになります。

障害のある子を育てようとしても「できるようになることを求められている」と思ってしまう(思わされる)と、「産む」という決断が出せない人も少なくはないでしょう。

旧優生保護法が母体保護法に改正されたからと言って、母体保護法から優生思想に基づく条項が削除されたからと言って、「優生思想がなくなる」わけではありません。

ふだんの生活の中で、そのことを考えながら「なくなるように」していかなければ、なくなりません。それをしないと、考える・考えないに関わらず、「優生思想」は残るでしょう。