参議院議員選挙がありました~発言力の高まり~

今年7月に行われた参議院議員選挙では、障害の重い方が2名当選しました。

国会のバリアフリー化が進められたり、委員会等で障害のある方の日常生活上での困難さを訴えたりされています。そのなかで、新幹線の車いす対応座席に予約が必要であることが取り上げられ、大臣の発言もありました。

また、ヘルパーが常時必要であるにもかからわず、現在の制度では、就労に関しては、障害福祉サービスにもとづくヘルパー利用ができないため、国会開催中のヘルパー利用料を国会が負担するということもありました。

国会議員の発言力、影響力の大きさを感じさせた出来事でした。

就労するためにヘルパー利用を可能に

国会議員の超党派の議員連盟の一つに「障害者の安定雇用・安心就労促進をめざす議員連盟」(略称:インクルーシブ雇用議連)があります。そこでも、これまで就労するためにヘルパー利用が必要な人がいる、ヘルパー利用ができると就労が可能になるということが議論されており、どの程度かはわかりませんが、就労に関してヘルパー利用が可能になるという方向性が出てきていたようです。

国会議員だから特別ということではなく、本人たちもそのつもりではないので、できるだけ早い機会に、障害福祉サービスにもとづくヘルパー利用ができて就労に結びつく人が増えていけばと思います。

一市民の時には冷たい対応の時も~一市民の発言に対しても同じ対応を~

以前、国会でALS(筋萎縮性側索硬化症)の方が陳述をしようとしたときに、国会議員が「時間稼ぎをしている」、「時間がかかりすぎる」などということばを浴びせたことがあります。

当選した舩後氏はALSであり、一市民が発言するときと、国会議員が発言するときとで、影響力の違いを改めて感じました。障害のある人が国会議員となり影響力が出てきたことは、悪いことではありません。しかし、これで良いわけではありません。

同じ内容のことを発言したときに、国会議員が発言すれば検討されるが、一市民の発言ではなかなか検討されないということであれば、障害のある人の日常生活の難しさが理解されたということにはなりません。

選挙で選ばれた国会議員だから発言力、影響力が大きいのは当然ですが、一市民の発言に対しても真摯な対応を求めたいものです。

障害の重さ(支援の必要性)は見た目では分かりません

舩後氏のような人を見ると、「障害が重い」とか「いろいろと大変なんだろう」と思う人は少なくはないでしょう。そして、見た目で判断して「難しいことを考えたり、発言することもできないのではないか」と思ってしまう人もいるのでしょう。それが、以前の国会議員の発言であったり、ネットでの中傷記事であったりするでしょう。

実際には、見た目に障害が重い人でも、議員になる人もいれば、大学等の研究職に就いている人もいます。逆に、見た目には障害があるのかないのかわからない人(障害が軽いと思われる人)でも、就労や余暇活動などで、社会参加が難しい方もいます。

でも、見た目で判断しがちです

私たちの事業所にも、いろいろと実習等で来られます。その中で多いのが、「障害があるので、できないことが多いと思っていたけれど、自分で出来ることも多いのですね」という感想であったり、「できないと思って、つい、お手伝いをしてしまったのですが、本人に聞くことが必要だったのですね」という気づきです。障害のために、話すことが難しい人がいるのは確かなので声をかけることに躊躇してしまいがちですが、少なくとも「声をかける」こと必要なのだという学びをされています。

当事者の立場に立つことは難しいけれど~自己満足で終わらないために~

実習で来た人、ボランティアで来た人には、「何かしなければいけない」という思いが強くて、仲間たちができることでも、ついつい代わりにしてしまうことがあります。その人にとっては、「できることがあった」、「良かった」となるかもしれません。

でもその場面で考えないといけないことは、「その人にとって、どうなのだろうか」ということです。

「良かれと思ってしたのに(なぜいけないの)」で終わってしまうのではなく、「良かれと思ってしたけれど、本当に良かったのだろうか」と振り返ることです。

極端なことで言えば、「障害があるのだから、してもらって喜ばないのはおかしい」という人が現実にいるということです。そのことは、自己満足であるだけでなく、障害があるということを理由にその人の人格を認めていないということであり、障害理解とは程遠いものです。

良かれと思ってしたけれど…~本当に良かったのだろうか?~

「自分の気持ちも分からないのに、他人の気持ちを分かれなんて…」と言う人もいるでしょう。「まして、障害のある人の気持ちなんて…」と思う人もいるでしょう。

ここでいうのは、「その人に代わってその人の気持ちを分かる」ということではありません。その人の気持ちを「分かろうとする」ことです。「自分だったらどうかな?」というように考えてみるのも一つの方法です。でも、それでは視野が広がらないので、誰かに「あなたなら、どう思う」と聞いてみるのも一つの方法です。

福祉の仕事をしているならなおさら

福祉の仕事をしているならなおさら「他人の気持ちは分からない」ではすまされません。

いやそうな顔をしているから「いやなのかな」では当然、相手の気持ちを考えたことにはなりません。なぜなら、自分(職員)の視点から変わっていないからです。少なくとも、「そう考えてみたけれど、本当にそうなのだろうか」と振り返ることが最低限必要なことです。

しかし、「言うは易し、行うは難し」です。確かめようがないので、堂々巡りをしてしまうことも多々ありますが、ある日、実感として「相手の気持ちが分かった」、「こう思っていたんだ」という場面に遭遇することがあります。

そんな経験を、多くの職員が、一場面でも二場面でも実感できるようになれば、と思うこの頃です。