「老いる」のイメージ

「老いる」と聞くと、以前に比べてできないことが増えたというマイナスのイメージが付きまといます。数年前の厚生労働省の調査では「健康上の問題」や「経済上の問題」に不安を感じる人が多いという結果が示されていました(対象は40歳以上)。ほかの項目に比べて大きく不安を感じているようで、それは「老いる」というイメージと大きくは違わないと思われます。「健康上」では思うように体が動かないとか「衰え」を感じることが増えたり、「経済上」では「年金だけで生活ができるだろうか」という不安だったりすることが要因なのでしょう。

仲間(利用者)にとっての「老いる」

障害のある人の寿命は延びてきたように思います。医療の進歩や生活環境の変化もあり、調査結果としては出されていないかもしれませんが、印象としてそのように思います。

「いまを生きている」仲間たちにとって、「以前と比べて長生きできるようになった」と思いながら生活をしているわけではないので、そんな印象はないでしょう。また、おりづるの仲間たちの平均年齢はまだ30代半ばなので、「衰えた」とも思っていない仲間がほとんどのはずです。

家族にとっての「老いる」

家族にとってはどうでしょうか。「まだまだ先のことは考えられない」という人もいれば、今も昔もですが「この子よりも一日長生きしなければ」という人も少なくはありません。

進学や就職、結婚という人生の節目節目で同居する家族が減っていき、結果的に障害のある子と過ごすことになるという家庭がほとんどのように思います。

「障害のある子の面倒は何歳になっても親が見るもの」という考えはまだ根強いのかもしれません。「ずっと過ごしていると、離れて暮らすなんて寂しくて考えられない」という人もいるでしょう。でも結局は、「離れて暮らそうにも、入所施設は少なくなり、グループホームも、すぐに入れるほど多くなっていない」という現実があるというのが、正直なところではないでしょうか。

職員にとっての「老いる」

職員の平均年齢は40歳前後なので、仲間たちの年齢とそれほど変わりません。仲間たちの親が年下という職員も若干名です。

また、仲間たちの多くは10年以上おりづるに通っていますが、職員の平均勤続年数は8年弱なので、仲間たちの方が先輩ということになります。そうなると、おりづるの職員になる前の仲間たちの様子が分からないということも多々あります。それを伝えていくのが先輩職員の役割なのですが、入所時に聞き取る成育歴はあるのですが、映像として残っていないものを伝えることは難しく、「あのとき、こんなことがあったんよ」と断片的にしか伝えられないもどかしさもあります。

職員の年齢層もそれほど高くはないので、両親や祖父母の様子を見て「老いる」ことを感じることがあっても、我がごととして考えたり感じたりすることはそれほど多くはないように思えます。

「まるごととらえる」こと

その人のことを「まるごととらえて」ということが言われます。その人の一部分ではなく、いろいろなことを見ないと、その人の全体像をとらえることができない、その人のことが分からないということですが、「いま現在のAさん」(その人の人生を点として)はまるごととらえることができても、「何十年も生きてきているAさん」(その人の人生を線)としてまるごととらえることはなかなか難しいことです。

職員さんが新しく来たときやボランティアさんが来られたときに、「老いてきている」仲間を見ると、そこがその人とかかわるときの「Aさんはこういう人なんだ」という基準になります。「老いてきている」からいま以上のことを求めるのは難しいと思ってしまうかもしれません。

一方、以前のAさんを知っていると、ついつい難しいことを求めてしまうこともにもなるかもしれません。どちらが良いとか良くないとかではなく、人と関わる仕事の難しさがここにあるのですが、「以前のAさんを知っている(知ろうとする)」と知らないでは、関わり方が変わると思います。

「以前のBさん」

おりづるで働く前のことなので、何十年も前のことです。

ある公園で近くのデイサービスの利用者さんと職員さんが来られていました。その利用者さんのなかに、以前の職場での知り合いの方がおられました。直接の上司ではないのですが、とても穏やかな方で、相談に来られた方にも職員にも丁寧に関わるところが印象に残っている方でしたが、そのときはたぶん認知症になっていたのではという感じでしたが、相変わらず穏やかにほかの利用者さんとお話をされていました。

そのお二人の利用者さんは穏やかに話をされていたのですが、そこにおられた若い職員さんは、ことば遣いは丁寧なのですが、何か子どもに話しかけるような感じがしました。その職員さんは何の悪気もないのはわかるので、それが良いとか良くないとかではなく、以前のBさんを知っている私にとって、何か寂しい気持ちになった一場面として書きました。

その人を「尊重」してとかよく言われますが、「尊重」しているつもりでも、なかなか「尊重」できないからこそ、その人がこれまでどのような人生を送ってきたのかを知る必要があると改めて思います。